SNIP STYLE 2025年4月号掲載 取材・掲載協力 株式会社コワパリジャポン
SHOWA → HEISEI → REIWA
未来ある美容業界、その先へ!
故・植村隆博さん率いるDADA立ち上げメンバーであり、VeLO代表の鳥羽直泰さんと蒲生会長の出会いは、メンバーがロンドンから帰国直後のDADA草創期まで遡る。分厚い作品集を持って蒲生会長の前に現れた植村隆博さんは、饒舌にヘアショーへの想いを語った。その夢物語のようなそのヘアショーを実現できたのは、“美容師を応援したい”という蒲生会長の力強い後押しがあったからこそ。その頃から続く鳥羽さんと会長との縁と、鳥羽直泰ヒストリーに迫ります。
腹を決めて取り組むことの
大切さを教えられたらいいなと
鳥羽直泰
蒲生 今日はよろしくお願いします。鳥羽さんのご出身は長野県ですよね。
鳥羽 はい。大町という長野の奥地で、黒部ダムがあるところです。
蒲生 長野の奥地で育った青年が美容師を目指したきっかけを教えてください。
鳥羽 父が建設関係、祖父が建具屋で、自分もデスクワークをするという概念はありませんでした。高校生になって進路を決める際、昔観た映画を思い出したんです。Out of Africa(愛と哀しみの果て)という映画で、草原でロバート・レッドフォードがメリル・ストリープの髪を洗うシーンがとても印象に残っていました。あと、僕が通っていた床屋のお兄さんが多趣味で、床屋の隅に趣味のものがたくさん置いてあって、自分の趣味を仕事に活かせる職業っていいなと思ったのもきっかけです。父は子どもを大学にいかせたいという気持ちで一生懸命働いてきたので最初は反対されましたが、両親を説得するためにプレゼンをしたんです。父はゼネコンで働いていたので昔からプレゼンが大好きで、なんでもプレゼンしてみろと言うタイプでした。
蒲生 鳥羽さんの頃は美容学校は1年制でしたよね。インターンはどちらに?
鳥羽 FEBBRAIO DI ALESです。みんなが就職活動をしている時はのんびりしていて、まわりが決まり始めて焦りました。FEBBRAIO DI ALESに合格した友人に紹介してもらって面接を受けに行きましたが1サロンだけではまずいと思い、履歴書を持って原宿青山界隈を歩き、目についた美容室に売り込みをかけるというやり方で(笑)、Studio Vはレセプション前を通りかかった当時原宿店のトップだった女性スタイリストの方に運よく面接をしていただけて。そのあとすぐにヨーロッパへ卒業旅行に行き、旅行中にFEBBRAIO DI ALESから合格の連絡をいただいて入社を決めたんですが、帰国してみたらStudio Vも合格していたんです。

蒲生 そこが運命の分かれ道で、Studio Vに入っていたらNYへ行って、ロンドンで植村隆博さんに出会うこともなかったかもしれないですね。
鳥羽 そうですね。運命的に入ったのかもしれません。でも長くは続かず…、腑に落ちない部分もあり辞めてしまったんです。その後一度都心から離れてみようと思い、東京・梅ヶ丘の美容室に就職しました。そのサロンのオーナーがVidal Sassoonの講師をやっていて、そこから海外への興味が膨らんでいきました。アシスタントながらVidal Sassoonのコンテストに出場したことがあり、その会場でVidal Sassoonのチームのヘアショーを見て“こういう世界もあるんだ”“海外いいな”と本格的に思うようになりました。僕は思い立ったらすぐに行動するタイプなので、本当はダメなんですけど夜バイトをしてお金を貯めて、実家へ帰って父に相談しました。“お前は東京へ行ったばかりじゃないか”と怒られ、東京に戻ってプレゼン資料をまとめ、もう一度父にプレゼンして許しを得て、資金援助をしてもらい渡英しました。
蒲生 英語も勉強されていたんですか。
鳥羽 ほぼゼロで行きました。猪突猛進すぎて空港のイミグレーション(出入国審査)で話しかけられるまで英語のことは忘れていました(笑)。
蒲生 苦労されましたか。
鳥羽 語学センスはあるほうだったと思います。最初の数か月間ホームステイをしていたんですが、その家に19歳の男の子と4歳の女の子がいて、19歳とは趣味のことを話せるし、英語力の近い4歳の子と遊ぶといい感じに勉強できるのでラッキーでした。あと、小さなラジオを買って学校の行き帰りにBBCのラジオを聴いたり、古い映画を上映している安い映画館で、自分の知っている内容と照らし合わせながら英語を理解していきました。
蒲生 実践型ですね。植村さんとの出会いは?
鳥羽 Vidal Sassoonで働いている日本人がいる、と噂では知っていました。菅野さん(後のDADA CuBiC代表・菅野由美子さん)や先生から面白い日本人の男の子がいると僕のことを聞いたようで、“今から家に行っていい?”と突然電話がかかってきたのが最初です。

蒲生 家に来て何を言われたんですか。
鳥羽 ダメ出しです。“きれいだけどつまらない部屋だ”とか、“この家はお茶も出ないの?” とか。あと、“これからどうするのか”と聞かれました。僕は1年間のスクールを終えたら帰国する予定だったのでそう伝えると、“自分たちの活動を見に来ないか”と誘われ、植村の家で作品を見せてもらってイギリスに残ると決めました。植村と菅野、西海が最初にロンドンで出会って、そのあとに僕、TAKE、吉村が参加したという流れです。
蒲生 西海さんが先に帰国して原宿にお店を出したんですよね。西海さん出身の東京美容専門学校校長の娘さんもロンドン帰りで、“お店を出す子がいるんだけど面倒見てやってくれないか”ということでガモウと付き合いが始まりました。そうこうしているうちに植村さんも帰国して、西荻窪のオフィスにこんな分厚い作品集を持ってきてね。それでいきなり、ヘアショーをやりたいって熱心に語り始めたんですよ。
鳥羽 お店をオープンしたはいいけれど、当時は美容師ブームだったので自分たちも何か仕掛けないといけない。それでヘアショーをやろうとなった時に会長に相談させていただき、なんとか成功させることができた感じです。原宿のクエストホールでした。
蒲生 同じ日にはACQUAが日本武道館でヘアショーをやったんですよね。美容師さんがやりたいことをやらせてあげたい、というのが僕の願いだから、協力できてよかったです。突拍子もないことを言われたこともあったけど、美容師さんを否定することはない。アートを追究する人に我々がとやかく意見を言うべきではないという想いで我々はずっとやってきました。独立されるきっかけはどのようなことだったのですか?
鳥羽 本当は辞めるつもりはなかったんです。植村のことも大嫌いで大好きで、メンバーのことも好きで、仕事も大変だけど苦ではなかった。でも、父が定年手前で大病をしたんです。東京に行って何が変わるんだ、美容室なんてどこにでもあるじゃないかとずっと言っていた人なので、一国一城の主になるというわかりやすい結果を見せてあげたいというのが最初のきっかけです。当時DADAも大きくなり始めてシステマチックに動かなければならない部分も多く、仕方のないことではありますが、ロンドンのミニマムなメンバーが集まっていた頃のことを懐かしく思うようになって……。その二つが重なって、すぐに植村に相談しました。植村の出す課題をすべてクリアできたら辞めていいと言われ、それをクリアするのに1年ほどかかりました。お店の中でいちばん忙しくなれ、対外的な仕事もいちばん忙しくやれ、トレーニング事項をまとめて下へと引き継げ、などです。それができないなら自分でお店をやることは不可能だ、という植村の意図も理解できたので、それを自分がお店をつくる上での最初のハードルと捉えて取り組みました。父はその後追い打ちをかけるようにガンを患ったのですが、なんとか存命中にお店を出すことができました。見積もりや工事のことなど父に相談して進めることができ、一緒にお店をつくったという感覚を父に残せたのが親孝行だったかなと思います。そのあと何年か持ち堪えましたが、植村とほぼ同時に逝ってしまいました。相談できる相手を一気に失い、突き放されたような感覚に陥りました。今度は自分が誰かの支えになる番だとバトンを渡されたのだと思っています。
蒲生 大丈夫! ここに第3の父がいるから。
鳥羽 会長はいつも親身になって話を聞いてくださるのでありがたいです。
蒲生 植村さんは厳しかったと思いますが、どう次世代へ伝えているのですか。
鳥羽 時代が変わりすぎてしまったのでそのまま受け継ぐことは無理ですが、僕は植村のいい部分を抽出して今の時代にフィックスさせながら次世代に繋いでいくことが僕の使命。腹を決めて取り組むことの大切さを教えられたらいいなと思っています。
自分のことは自分でしか決められない。
そのことは覚悟しなければならない
蒲生茂


鳥羽直泰(とばなおやす)
VeLO代表/トップディレクター。1972年生まれ。5年間のイギリス生活を経て、帰国後DADA(DADA CuBiC)に参加。2003年原宿にVeLO、2009年veticaをオープン。2015年にはVeLO、veticaを拡張移転リニューアル。サロンワークを中心に、雑誌や広告の撮影、セミナー講師、コンテスト審査員など多彩に活躍を続ける。
Photo / 宮里拓郎
取材・掲載協力



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